【今月の法話】

「私たちの“いのち”は御先祖様から絶え間なく、続いてきた“いのち”です」

私たちの“いのち”は御先祖様から絶え間なく、続いてきた“いのち”です。

大きく言うならば、地球上に人類が誕生して以来、はたまた、地球上に生物が誕生して以来、
もっと大きく言うならば、この広い大宇宙が誕生して以来、
生命の連続によって絶えたことのない “いのち”が、私たちの“いのち”なのです。

ですので、私の“いのち”もあなたの“いのち”も
宇宙でたった一つしかない尊い“いのち”を今、生きているのです。

それは世界中の人々もみんな同じです。
ですが、世界のどこかで、戦争やテロによって、その尊い“いのち”が奪われ、
また日本でも、自然災害や貧困、自死、いじめ等、悲しみや苦しみの中で生きている人がいます。

道元禅師様は、その悲しみや苦しみの不安の中で生きているお互いだからこそ、
支え合って寄り添って生きて行きましょう。と「同事」という教えをお示しになられました。
その教えとは、
「人はときに言葉に出さなくとも寄り添ってくれる人がいてくれるだけで救われることがあります。
そんな私でありたい、そんなあなたでいてほしい。」と願い、
「人は過去にどんなに恥ずかしい行為をしていても、過去にどんなに悲惨な経験をしていても、
今を生きるために勇気を振り絞って一歩を踏み出さなければならない時があります。
その踏み出す一歩をそっと静かに一緒に踏み出す私でありたい。
そんなあなたでいてほしい。」と願う、という生き方です。

「海の水を辞せざるは同事なり。このゆえに、よく水あつまりて海となるなり」
あなたの悲しみの涙のひとしずく、
あなたの苦しみの涙のひとしずくを
仏という広い海は余すことなく受け止め、私たちを救ってくださいます。
それが同事の御教えです。

その「同事」を実践する第一歩が「坐禅」をすることなのです。

合掌

墓地 大泉寺

 


 

【過去の法話】

「終活は自分の生き様の集大成」

最近、「終活」という言葉が流行っている。
人生の最期をどうするか?埋葬や供養の仕方をどうするか?
生きている間に考えておくことは良いことだ。

人間は多かれ少なかれ、誰かの世話やお陰様によって生かされている。
自分の最期も絶対に誰かの世話になるのだからお互い様だ。
「終活」は身近な人に相談しながら進めると良い。

自分が死んだ時のことを考えてみたら、生きている間に、身内や世話になりそうな人に
「死んだときには、迷惑掛けるけど、宜しくお願いします。」
と謙虚な気持ちで事前に頭を下げておくことも大切だ。
ちゃんと人間関係を築いている人ならそう言われて「私は知りません」という人はいない。

永代供養は、跡取りがいない方は、身近な兄弟や親戚を含めお寺さんに相談するとよい。
きっと良い供養の仕方を教えてくれる。
また子ども達がいるのに“子どもに迷惑掛けたくない”という理由で永代供養を考えるのは間違いだ。
先祖供養は、実は親自体が面倒くさいと思っている人が少なからずある。
あなたが先祖を大切にする姿を子どもに見せることで、子ども達は命の繋がりを自覚するようになる。
子ども達の命の繋がりの場を親が摘み取ってはならない。

また葬儀においては、葬祭に掛かる費用面から、
宗教的儀式も何もせずに直接、火葬する「直葬」もするようになった。
一概に良い悪いは言えないが、日本の文化は「仏教」や「神道」に根付いた
文化的生活習慣が身についており
“この世との別れの儀式(ケジメ)”は宗教的儀式で見送ってほしい。
これは後に遺される子や孫、また親戚にとっても必要なことだ。
なぜなら親の葬儀や年回を通して、自分の命の尊さや、
今ある命が過去の命(御先祖様)から未来に繋がる命ということに
気付かせてもらう機会になるのだから。

葬儀費用に関しては事前に葬儀社に見積りも取れるし、
お布施等も縁がある住職または神主に、遠慮なく尋ねるといい。
自分の経済事情を相談すれば納得できる回答があるはずだ。

「終活は自分の生き様の集大成」
謙虚な気持ちでお世話になった家族・親族に感謝をしながら、
自分ヨガリにならず、周りの人たちと紡ぎあって「終活」を進めてほしいと思う。

 


 

「語り継ぐ・・・戦後70年にあたり」

2015年は戦後七十年でした。
私が教えて頂いたある18歳の回天特攻隊員だった方の遺書を今からご紹介します。

 

お母さん、私は後三時間で祖国のために散っていきます。
胸は日本晴れ。本当ですよ、お母さん。少しも怖くない。

しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。
それは、今日私が戦死する。通知が届く。
お父さんは男だからわかっていただけると思いますが、
お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。
弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。
お母さん。こんなことを考えてみましたら、私も人の子。やはり寂しい。

しかしお母さん。考えて見てください。
今日、私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。
戦争はこの日本本土まで迫って、
この世の中で一番好だった母さんが死なれるから私が行くのですよ。
母さん 今日私が特攻隊で行かなければ、
年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。

だからね、だからね、母さん。
私が特攻隊で行かなければ、未だ先のある弟や妹たちまでもが犠牲になるんですよ。
だからね、母さん、母さん わかりました、わかりました、
わかったらどうか 今日私が戦死しても、どうか涙だけは耐えてくださいね。
でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だから。

お母さん、私はどんな敵だって怖くありません。
私が一番怖いのは、母さんの涙が一番怖いのです

 

戦時中、山口県内には特攻兵器人間魚雷回天の訓練施設がありました。
私たちは回天よって106名の若き命が犠牲になったことは決して忘れてはなりません。
私たちの今日があるのは、先の戦争で亡くなられた方々の犠牲の上に成り立っているのです。

亡き人を供養するということは、亡き人が悲しむような生き方ではなく、
今の私たちが亡き人に喜んで頂けるような生き方をしていくことがこの上ない供養なのです。合掌

 


 

「数珠」

私たちは仏事の際、数珠を持ってお参りをします。

数珠の玉は一〇八個が基本で、半分にした五十四個とそのまた半分の二十七個があります。
どうして一〇八個なのかというと、私たちの心には一〇八個の煩悩があると言われており、
仏様やご先祖様に手を合わせる時、数珠がその煩悩を受け止め、
清らかな心にしてくれると言われております。
煩悩をもっと解りやすい表現にしますと、「わがままな心」ということになります。

お釈迦様は私たちにどうしたら幸せになれるかということを、教えてくださいました。

それにはまず、煩悩を少しでも減らすこと、
つまり、わがままな心を捨てるようにとおっしゃいました。
わがままな心とは「自分の思い通りになったらいい」「自分だけ満足で幸せならいい」という心です。
数珠を持ってお参りすることは、いつもたくさんの「わがままな心」を
少しでも無くすよう努力しますということなのです。

相田みつをさんの詩を紹介します。

「わけ合えば」
うばい合えば足らぬ
わけ合えばあまる
うばい合えばあらそい
わけ合えばやすらぎ

うばい合えばにくしみ
わけ合えばよろこび
うばい合えば不満
わけ合えば感謝

うばい合えば戦争
わけ合えば平和
うばい合えば地獄
わけ合えば極楽
相田みつを

数珠を持って手を合わす時、人々の心に、我を捨てわけ合う心が芽生えることを祈っております。

 


 

「六波羅蜜(ろくはらみつ)」

仏教の教えに「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という六つの教えがあります。

波羅蜜とは彼岸(悟りの境地)という意味で、人々を心健やかに幸福に導く六つの方法
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」を言います。

まずは、「布施
布施の精神は惜しまず奉仕の心を忘れないことで、
ほどこしをしても誇らず、ほどこしを受けても卑屈になってはならないということです。

次に「持戒
持戒とは、規律や人との約束を守ることです。
自分ひとりの力で生きられない社会生活を円滑にいとなむために、
お互い決めたルールを守らなければならないということです。

次に「忍辱(にんにく)
忍辱とは、様々な障害に耐え忍ぶことです。
耐え忍ぶということは、花のような柔和な心を持ち、
仕返しをすることよりも相手をあわれみ、思いやりをもって接するということです。

次に「精進
精進とは、善を行い悪をたつ努力を継続的に行うことで、
今日の務めに精を出し日々励むということです。

次に「禅定
禅定とは心を静かに落ち着けて心が散ったり乱れたりすることを防ぐ修行、坐禅のことです。
坐禅は調身・調息・調心といって、体をまっすぐに息を整え、心を整える修行の一つです。

最後に「智慧
智慧とはものごとを正しくありのままにみて真実を深く見極めるということです。

この六波羅蜜は仏教徒にとって幸福に生きるための道標でもあります。
是非、一人でも多くの方に実践して頂きたいと願っております。

 


 

「四馬の譬え話」

 お釈迦様は人々に四種の馬の譬喩を示された。

一番目の馬は、騎手が鞭を振りかざしたその影を見て走り出す馬で、もっとも良い馬。
二番目の馬は、毛の先に鞭が触れて走り出す馬。
三番目は鞭が肉に触れてから走り出す馬。
四番目は鞭を何度打っても気付かず肉を裂き、骨に達してやっと走り出す馬。

お釈迦様はこの四馬の譬え話をもって人々に何を伝えたかったのか?

第一の馬は、他の村や町で死人が出たと伝え聞いて、自分の死のことを考え、
うかうかしてはおれんと求道の心をおこす人を表わす。
第二の馬は、隣村じゃなくて自分の村に死人が出たと聞きこれを我がこととして
目覚め行動する人を表わす。
三番目の馬というのは、自分の愛する親族や親しい友人が亡くなって自分も死ぬのだと
自覚し行動する人を表わす。
四番目の、幾ら打っても走らんという馬は何を例えたかというと、自分自身がいよいよお迎えに来られて死を自覚する人を言うが、自分が迎えに来られてからでは、求道の心を起こしても手遅れということを表わしている。

 お釈迦様の言われた四馬の譬え話は私達に一刻も早く真実の教えに従い修行し、人々を救う人になれと伝えている。また宗祖・道元禅師も教えの中で、「光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し」と“時間はあっという間に過ぎ去り、命は朝露よりも儚いものだ。無駄に過ごすな、日々を大切に生きよ”とお説きになっている。

 今年もあっという間に十二月。私自身、祖師方の教えに触れながら今年こそと思いつつ、やるべき事が出来ていない。来年は午年。月日が駆け走って行くことを自覚して、物事がウマく進む年であるよう努力して行きたい。

 


 

「ツライことはいつまでも続かない」

 人は生きていく過程で様々な出来事があります。
出会いや別れ、病気、争いごと、等々。
皆さんの中にも今現在、悲しみ・苦しみ・悩みを抱え、人生どん底のような辛い毎日を
過ごしている方があると思います。
例えばその方の人生は今、嵐の真只中であり、台風に見まわれている最中と仮定しましょう。
しかし嵐や台風は、いつかは過ぎ去って行きます。
牡蠣養殖業者の話ですが、台風の接近は悪いことではないそうです。
それは台風によって海底の澱んだ水を押し流し、川から山の栄養を運んでくれ、
牡蠣の成長に欠かせないと。

 今辛い思いをしているあなた。
あなたにとって今人生の嵐の時であり台風の時なのです。でも今の辛い経験は将来、あなたを人間的に成長させ、力強く生きる術を学ばせてくれるに違いありません。
実際の台風の時、私たちは出来るだけ被害がないようにじっと建物の中で身を潜め、台風が過ぎ去って行くのを耐え忍ばなければなりません。

 そう耐え忍ぶということ。

 今あなたに降りかかっている辛い出来事に対して、ヘタに動き回ると返って大きな被害を受けることもあります。時に耐え忍ぶことも大切なのです。

 国宝の神社仏閣修復を手掛ける宮大工の棟梁の話ですが、神社や寺の修復にはよくヒノキを使いますが、ヒノキなら何でも良いということではないそうです。南斜面で暖かいところでぬくぬくと育ったヒノキよりも、北斜面で寒さに耐え成長は遅いがじっくり年月を掛けて育ったヒノキの方が耐久性に優れているそうです。
人間にも同じことが言えるのではないでしょうか?

 無常という言葉があります。
 無常とはこの世の一切のものは生滅流転し、永遠不変のものはない。ということです。
 日本ではこの無常という言葉をマイナス的なイメージで捉えていますが、お釈迦様の言う無常とは、
「この世のものはすべて移り変わって行く。だからこそ、このことを自覚し、今を精一杯生きなさい。」と今生かされていることの大切さを説いてらっしゃいます。

 今、順風満帆に過ごしている人もこの無常を自覚し、今を精一杯生きる。
 また今、苦しく辛い思いをしている人も今を精一杯耐え忍ぶ。
あなたに降りかかる嵐や台風は必ず過ぎ去り、過ぎ去った後には晴れやかな青空が、
あなたを待っています。

 


 

●「経営」とは

 さて今回は「経営」についてお話します。

 もともと「経営」とは、建物を造るときなど、力を尽くし工夫を凝らし建物を造ること。
また禅寺で大きな法要をうまく行うこと、またその準備で忙しく奔走することをさしました。
「経」とは縦糸・筋道・道理を意味します。
ですから営みにちゃんと筋が通ってないといけません。
つまり経営という字には、商売・生業にはきちんとしたモラルや道理が必要だ、
との意味が含まれているのです。

 さて、近年政権交代により民主党政府があれこれと景気対策を打ち出しました。
定額給付金・高速道路通行料土日半額・エコカー減税・エコポイント等、
確かに一時的にお金が入ることや、自動車が安く購入出来ることや、車での遠方旅行が安く行けることは有難いことです。
しかし、目先の恩恵の付けは数年後、消費税増税という形で私たちに返って来ることになりました。
また、東日本大震災もあり、景気を刺激させるため、大幅な赤字国債を発行するとのこと。
今でさえ、国の借金は1000兆円を超え途方もない額で、消費税増税した位でこの借金が減らせるかどうか?

 「このままで本当に日本は大丈夫か?」と心配するのは私だけではないと思います。
私が思いますに昨今の国の政策を始め、世の中全体を見回しておりますと、目先のことに囚われ、短絡的になりすぎているように感じます。
短絡的とは、筋道立てて考えず物事を結びつけることを言います。
つまり、世の中の筋道・道理がうまく通ってない・筋が一本まっすぐに通っていないということです。
例えば私たちの日常を振り返って物事がうまく行かないときがあります。
そんな時、もしかしたら筋道・道理があっていないのかもしれません。

 世の中を良くしようと思ったら、まずは身近な私たち自身の行いを謙虚に振り返ることが大切です。
自分自身の生活が筋道・道理にあっているかどうか?
ご先祖様に手を合わすとき、自分自身の筋道・道理が見えてくるのだと思います。
一人一人が謙虚に筋道・道理を見ることができれば、自然と世の中が良くなると思うのですが・・・

 どうか皆さんご先祖様やお寺・神社に参り、手を合わせるとき、
ご自身の「心の経営(筋道・道理の営み)」を忘れないでください。

 


 

 貧者の一灯・・・「利他行のすすめ」

 今から約二千五百年前、お釈迦さまがアジャセ王(中インド、マカダ国王)の招きに応じて王宮で説法され、夜になり祇園精舎(釈尊のお寺)へお帰りになる時、王は暗い夜道でお釈迦様が怪我をされないよう、宮門より精舎の間に数万の灯をともして供養しました。時にひとりの貧しい老婆がいて、この供養を目の当たりにして涙を流して喜び、ささやかながら自分も托鉢して得た二銭の浄財を油に代えて一灯を供養しました。ところがこの一灯は王の供養した万灯よりも光明はまさり、翌朝になると王の万灯は消えましたが、貧者の一灯は少しも消えることなく、いよいよ輝きを増したのでした。時にお釈迦様は弟子の目連尊者に、「この老婆はかつて百八十億の仏を供養した功徳により、三十劫の後には必ず仏となり、須弥灯光如来と称されるだろう」と告げられたといいます。

 形としてわずかでも、心をこめてする供養は、誇らしげになされる莫大な供養より勝る、という教えですが、この行いは「利他行」(他を利する行い)とも言います。この老婆は毎日食べていくこともままならないのに、お釈迦様の為に尊い供養「自分は置いといて、まずは他の利益(りやく)の為に」という「利他行」を実践されたのでした。

 今日の日本では、グローバル経済に乗り遅れまいと、企業がどんどん海外に進出し、お陰で色々な物が安く手に入るようになりましたが、半面国内産業の空洞化により、景気は増々悪くなる一方。そうなると企業も人も自衛策として自分の利益のことをまず先に考えるようになり、さらに消費者は安い商品を買い求めます。確かに家計には助かりますが、「安い商品」には相当なコストカットがあり、それを買い続けて自分たちの生活が豊かになるのか? 廻り回って私達自身の首を絞めて行くことになるのではないでしょうか? 私達が安い商品を買うにあたり、その裏で人々の血の滲むような努力と苦労があることを思い遣り、感謝の念を忘れてはなりません。

 利他行とは、「自分のことよりまず相手のことを思い遣る」ことから始まります。実践は難しいのですが、不景気な今だからこそ、お釈迦様からの大切な教えとして受け止め、人々が少しでも心掛けて実践して行けば、相手を思い遣る本当の心豊かな世の中になると思います。

大泉寺へのお問い合わせ
gasshou-raihai★daisenji55.com
(「★」の部分を「@」に変更してください)

住職へのお問い合わせはコチラ
(「★」の部分を「@」に変更してください)